ひめゆり。終戦間際に看護要員の10代女学生たちは敵前に丸腰で放り出された。

今回、たまたま戦争経験者の生の声を聞くことができる

貴重な場所に行った。

初めて、「センソウ」を

アニメでもなく、ドラマでもなく生の声で聞いた。

隣に住んでいそうなおばさんが話してくれた。

それまで戦争は遠い話だった。

広島や長崎、沖縄にゆかりもなかったから。

けど、すぐ近くのおばさんがおばさんの言葉で語る戦争は

生々しかった。

それが聞けたのは、ひめゆり平和祈念資料館。

ひめゆり平和祈念資料館とは。

第二次世界大戦の終戦前の約半年の間に

200名以上の14~19の女学生が泥沼の沖縄決戦中に

懸命に負傷兵を看護し、犠牲になったことを悼んで建てられた。

当時、ひめゆり学徒として戦争に駆り出されていた。

まだ、中学、高校の頃にも関わらず。

最もグロテスクな証言は負傷兵の看病だった。

ある女性の証言をここに書き起こしてみます。

負傷した兵士が防空壕に次々と運ばれてくる。

腐敗させないために身体を切断する。

もちろん十分な麻酔もなく、切る。

切ったあと、皮膚をめくりあげ、中の肉を少しずつ切る。

静脈もはっきりと見え切断。吹き出す血しぶき。

骨に到達しても、ノコギリしかないので少しずつしか切れない。

キリキリキリキリ。。。

もう一度言う。

麻酔はない。

骨のなかには神経が通っている。

それごと切るのだ。

どれほどの痛みだったか。

おそらく、兵士は悶絶しつづけるか

気絶しては起きるの繰り返しだったはず。

それを間近に見る。

最後は、ぼとりと落ちる兵士の太もも。

それを両手に受け止めて、防空壕の外に捨てに行く。

まだ、14.5の女の子が。

そんなことが1日に50.60人も息つく暇なく続く。

考えたり、悲しんだりする時間はなかった。

感覚は麻痺していて

ただ、目の前の人々を

ただ、教えられたとおりに治療することしかできなかった。

そういうことが「戦争」だった。

初めて生身の人間の経験として追体験てきた気がした。

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