「消滅集落の家族」感想。繋がりの実感=生きている感覚

消滅集落の家族

誰もいなくなった秋田の集落に、たった4人だけの家族が暮らしている。自給自足の生活をする木村さんたちは、田植えも、薪割りも、味噌作りも全て家族でやる。小さな子どもたちも両親の手伝いをしながらたくさんの生活の知恵を身に付けていく。

生活の中心に父母の確かな存在感がある

最も素晴らしいなと感じたのは、子どもたちと父親が協力しあいながら田んぼの稲刈りをしていたシーン。こんな風に一緒になって、暮らしに必要なことをするからこそ「お父さんは頼りになる」って子どもは実感を持って育っていくもんだよなと。だから、お父さん何してるかわかんないし、知らない。興味ない。てことが起こらない。もちろん、ごはんを一緒につくるお母さんはお父さん以上に尊敬されそう。それだけ、父母の存在が子どもたちの中に確かなものとして残っていく。

生きるの根本の感覚

こんな風に生きる(=食べていくのに必要なことをやる)の根本をやっていると、生きることから乖離したものの考え方とか生き方をすることはまずないと思う。自分が他の動植物たちの命の循環の中にいる感覚が芽生えるから。全てと繋がっている一体感や安らぎがそこにはある。そうすれば、自然だけでなく、他の人間との繋がりも感じられると思う。

繋がりを感じられないから大事にできないんじゃないか

今みたいに、子どもは学校や習い事、親は職場。みたいに別れて過ごす時間が多すぎると「家族」である実感がわきにくいんじゃないかと思う。家族とも繋がらず、自然との繋がりもない。そんな、「繋がり」の実感がわかないまま大人になった子どもたちが親や他の人々を大事に思えないのは無理もないんじゃないか。

都会の生活に繋がりはあるか

この家族を見ていると、繋がる実感のない都会の生活がマヤカシのように感じてしまう。

誰かにアピールするための書類づくり、不必要なスマイル、作業を早くするためだけのもの作り。繋がらないことばかりやっていると地に足着いてなくて気持ち悪くなって、時々キャンプに行ったりして繋がろうとする。そんなことを繰り返しているあいだに年を取ってしまう。

それほど、経済というのが私の身体を蝕んでいる気がする。

成長が繋がりを断ち切る

なんで、繋がりのないことばかりが今の世の中で仕事になってるんだろう。

インターネット関連や金融関連の仕事が特に需要の高いものだけど、本来の「生きる」行為には全く必要がない。

一見、みんなのためになりそうな技術の進歩も実は、それを持つものと持たないものとを分断していってる気がする。一部の進歩した人間が富を得るためだけに開発されてる気がしてならない。

成長が、繋がりを断ち切る装置かもしれない。

成長しながら繋がるには

続く。

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